亀井玆矩・山中鹿介 縁の観光地
鹿野城跡
鹿野城跡公園
戦国時代、亀井玆矩公の居城跡で、頂上の石と内堀・外堀の石垣に当時の面影が残っています。
約500本のソメイヨシノが植えられ、桜の名所として親しまれています。夜はライトアップされ、堀の両端の桜と水面に映る桜とが幻想的な風景を作り出しています。
城山神社
創立年代は不明ですが、元は加知弥神社の摂社で古くから崇敬されていました。
スサノオノミコトを祀り、亀井玆矩在城の頃は鹿野城の守り神としてまつられていました。
社殿の規模は小さいものその構造や彫刻は近郷に例をみない精巧なものです。
亀井玆矩公墓所
鹿野城主であった亀井玆矩公のお墓は、気高町田仲(たちゅう)の集落側から5〜10分程度登ったところにあります。
墓標ははるかに鹿野城址や鹿野城下町を望むロケーション。2017年11月には戦国から江戸への時代の変遷を象徴する資料として評価され、国の史跡に指定されました。
幸盛寺(山中鹿介の墓)
鹿野城下町の下町にあるお寺です。
亀井玆矩が鹿介の菩提を弔うために現在地に移転させて、鹿野山幸盛寺としました。
亀井玆矩が鹿介の菩提を弔うために現在地に移転させて、鹿野山幸盛寺としました。
境内には樹齢400年の大銀杏(高さ34m)があり、その下に鹿介の墓があります。
また墓の前には高さ250cmの五輪塔がありますが、これは慶長19年(1614年)に亡くなった玆矩の姉の墓です。
■山中鹿介と幸盛寺
山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将です。
山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将です。
尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)といい、優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取りました。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名です。
鹿野城主となった亀井茲矩は、家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、霊を慰めるため寺と墓を建てました。
寺の名は鹿介の別名・幸盛(ゆきもり)から「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。